不忘寮のこと

お母(かあ)が、白石市立福岡中学校に在学中入っていた寮は「不忘(ふぼう)寮」という名前だったんだって。白石市の福岡学区は総面積111平方キロ、北は不忘・蔵王、東は青麻(あおそ)のふもとまで広がるとっても大きな地域なんだよ。この広い土地に散らばるように建っている家々の中学生は、遠距離で15キロ位の道のりを毎日中学校まで歩いて通っていたんだって。それで昭和28年に遠距離地区の不忘・蔵王の生徒は、ブタやニワトリ、牛を飼って自給自足の寄宿舎生活を送り始めたんだよ。一度経営難で閉鎖になったけど、三住地区も加わって昭和46年に陣場山(福岡小学校の近く)に、「不忘寮」が誕生したんだって。もちろんその頃は、自給自足の生活ではなかったけど、毎日朝晩通ってきてくれる寮母さんと一緒に、女子は当番で朝食、弁当、夕食を作っていたんだよ。夜にはみんなで食堂に集まって学習時間もあったんだって。毎週土曜日に我が家に帰って、月曜日には寮に戻って学校に通う…そんな生活だったんだって。
寮生は男女合わせて40名強はいたかなぁ〜。それに舎監(先生)がいて全体をまとめてくれていたんだって。寮には「寮歌」があって、その中のひとつ門脇貞造先生が詞を書いて、菊地嘉雄先生が作曲した「忘れじの歌」が、お母(かあ)は大好きで、今でも覚えていて口ずさむたびジーンとなるんだって…
流れゆく、雲をしたいて、いつの日か、巣立たん我ら、友の身を、かばいつつみて、共に寝た、宿舎のしとね、いつまでも忘れじ、いつまでも忘れじ。
父母の、生きるきびしさ、見るたびに、新たに思う、風雪に、耐える強さで、春の日に、飛び立つことを、いつの日も忘れじ、いつの日も忘れじ。
落日の沈むあたりの、山裾の霞むあたりに、我が家(いえ)の、あると思えば、寂しさを誰にか告げん、この想い忘れじ、この想い忘れじ
情景が浮かんで、不忘寮を知らない人でもジーンときそう…かな?
写真は、今日の農業用溜め池だよ。